輪島塗の軌跡

能登國輪島町 漆職人板


全面に漆痕が遺り 
裏側に「能登國輪島町」と

 廃藩置県以前の住所表記が墨書きされた漆職人の板 

 

その他「大極上々 蝋燭」、日付等の記載がある事から

輪島町に住む漆職人が蝋燭を所望した際に納められた

木箱の蓋を作業台に見立て使用したものと 推測される

蓋板の大きさから見ると相当量の蝋燭が
収められていたと考えられ夜の灯火として
往時の情景が偲ばれる一品

 

幕末–明治時代(十九世紀)

古能登・古輪島塗朱椀 

 

古輪島塗の朱塗椀

玉縁を備え腰を低く張り出した椀形に

江戸前期〜中期頃まで上がるものと思われる

 

 

輪島塗の起源には諸説あるがその一つに 他産地の漆芸とも
共通する技法を背景とする室町時代、又は安土桃山時代に
焼け落ちた根来寺
から離散した僧からその技術が伝わり


その後、寛永から元文年間にかけて現在までにも

続く独自の分業体制を築いたと語られる

 


内側の使用痕や縁などから覗く中塗の景色からは
その影響が

伺え同等に堅い造りであるが椀の厚み、塗などは

畿内近域の根来椀とは異なる様子を見せる

 

江戸時代(十七–十八世紀)

輪島塗 蓋付黒漆椀 


マットな塗が印象的な明治時代の輪島塗黒漆椀


椀はほぼ未使用の状態で遺り付属する包紙には
「布着能登國輪島.各博覧會共進會賞碑」と記載あり

 

その内容から当時多くの商業品や工藝品を

産地より出展した第10回関西府県連合共進会
(明治43年・名古屋鶴舞公園)
にて出品された椀であることが分かる

 

当時の計31府県が参加した催しの中で輪島塗が
銅賞を受賞したことを記録する一品

 

 府県連合共進会は明治期を通じて開催された

大規模地方博覧会各産地が新製品や優品を

競う場として機能した

 

この様な博覧会文化は万国博覧会から内国勧業博覧会

連なる殖産興業の潮流に位置づけられる

 

「受賞歴」を誇示する包紙には十六弁八重表菊紋

御饌を司る神様から産業の守護神として

崇められた豊受大御神が描かれている

 

輪島塗沈金朱塗 根菜文大平椀 


直径 24cmもある輪島塗の蓋付椀

所謂、大平椀と呼ばれる椀形で漆面には細やかな彫の
金沈金にて大根・蕪などの根菜文様が描かれる

沈金は中国では鎗金と呼ばれる宋代から行われていた技法を
倣ったものであるが輪島では享保年間(1716年~1735年)

から始まったとされ 、その堅牢な塗に対する装飾として

適していたのも輪島塗で発展を遂げてきた

理由の一つと考えられる

 近代に入るにつれ、輪島塗は次第に華美な作行へと

傾いていくが、本作はその過渡期にあたり沈金の

線描と塗面の静かな趣きが調和した仕上げとなっている

 

椀内の内端に古い時代の塗直しの修復跡が

ある事から長く使用されていた事が伺える

明治時代(十九世紀末)

​能登方面 赤漆塗椀 


能登半島地震の後に現地から
出てきたと伝わる江戸時代の赤色漆の塗椀

深い赤みを持った塗椀は他産地では江戸時代の
書写塗(第四形式)で類作があるが

弁柄漆を用いたそれよりもやや一段と
深い色味を呈した椀は能登・北陸の地からも
その遺物が散見され同地で制作されていた
漆椀ついての細やかな検証は未だ謎に包まれたままである

江戸時代(十八–十九世紀)


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※キャプション・説明・時代については  

考察が進み次第、随時訂正していきます。