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見立て

見立て

 

「見立て」


日常生活の中で
度々使われる言葉ですが
この見立てと呼ばれるものは
日本の多くの文化の根底に流れ
その起源は神話にも遡る事ができ
現代の私達の生活にも
浸透していると考えられています。
それではいったい見立てとは

いつに始まり、どのような場面で使われ、

どんな影響を持たらしたのか

『見立て』の歴史を
「振り返って」みましょう。

まずは見立てという言葉の定義を
簡単におさらいしてみましょう。
2018年に改訂された『広辞苑』第七版によると以下のような説明がされています。

 『見立て』1 見送り。送別。2 見て選び定めること ア 選定。鑑定。イ 診断。「ー違い」ウ 遊客が相方の遊女を選ぶこと

3 見た感じ。 みばえ。(「みだて」とも)

4 なぞらえること。

5 芸術表現の一技法。 対象を性質の似た他のものになぞらえて表現すること。
              和歌・俳諧・戯作文学・歌舞伎などに用いられる。

出典:広辞苑第七版


 

普段の生活の中で私達が使ったり
そこからイメージする意味合いには

2 の見定めるや
4 のなぞらえることといった感じが多いのではないでしょうか。

見立ての始まり 古事記

歴史を遡ってみると
古事記
に記載されている
イザナミ、イザナギによる国産み伝説の中に

<見立>という言葉が既に使われているのを
見出す事ができます。

伊邪那岐命と伊耶那美命が
大八島(日本列島)を作る為に婚礼の儀式を
行ったものであり
神話の中でも神代を扱った
最初の方に記載されている有名なエピソードの一つといえるでしょう。

原文

見立八尋殿。

見立天之御柱。

於其嶋天降坐而。

読み下し

八尋殿を見立て。

天の御柱見立て。

天降りまして。

   その島に

                               天瓊を以て滄海を探るの図(小林永濯) 明治時代

原文が記載されているこの物語を画を
参照に簡単に説明してみると
伊邪那岐命
(イザナギ)と
伊邪那美命
(イザナミ)が
天浮橋(天)から自分達の降りる島を創る為に
矛でコロコロと海水をかき混ぜると
その矛先の雫が滴り落ちた塩が積もり
オノコロ島と呼ばれる島ができあがります。
二神はその島に下って
天の御柱八尋殿を見立て柱を周り結婚をしてまぐわいをすることによって淡路島を始めとし
大八洲(日本列島)が出来上がるというお話です。

このエピソードの解釈には
二つを実際に立てたという説と
天の御柱
は見立てただけで八尋殿だけを立てたという二つの説があり

まだ国土ができていない状態から
なにかの柱を見定めて呪術的なものを宿す意味合いを感じとる事ができます。

明治の民俗学者 折口信夫 は
同じ内容の神話が載っている
『日本書紀』との言葉の比較から
現実に建築したことでなく、
見立てることによって想像した
のだと解釈しています。

このように見立ての起源は文献として
<日本誕生>の神話まで遡って求める事ができるといえるでしょう。

また古事記には国産みの神様の二人から産まれた須佐之男命(スサノヲノミコト)による
最も古い和歌が詠まれてもいますが、
この見立てと呼ばれる手法が神代から平安時代にかけて最初に現れるのは和歌、文芸の世界からでした。

文芸による見立て 古今和歌集

先の古事記と同時代の八世紀に編纂された
和歌集に万葉集があります。
この万葉集には作者の貴賤問わず約4500首が収められた歌集で
選ばれている歌の中には
梅の花を雪
に、露を玉にと
ある物を他のものになぞらえた表現を持った歌も収められていますが、

そんな歌集の中でもっとも見立ての手法が
顕著に表れるのが、

平安中期に紀貫之らによって編成された

古今和歌集
でした。

古今和歌集は国風文化の流れにより
万葉集の編纂以降に入らなかった、

もしくは生まれた歌を集めた
 勅撰和歌集 とされてますが

その内容は当時の貴族によって漢詩を教養に
やまと言葉にして詠まれたものが多く

また四季による鮮やかな情景を「見立て」を用いて優雅な格調で
表現した歌が多く収められているのが特徴でもありました。

それでは「見立て」を用いられて作られた和歌とは一体どんなものであったのでしょうか。
選者の一人である紀貫之の代表的な
一首を用いて解説してみましょう。

原文

水なき空に 波ぞたちける

さくら花 ちりぬる風の なごりには

現代訳

桜の花が散ったあとの風のなごりには、水のないはずの空に散り乱れる花びらの波が立っているようだ。

解説

春のある日、風に吹きちらされた桜の花びらが晴天の青い空に舞う光景を水面に波立つ様に
なぞらえて表現されています。

31語と限られた音数の中で作られる
短歌にとって「見立て」を用いることはより少ない言葉の中でイメージ力を広がる印象を
与えることができるのではないでしょうか。

一首だけで古今和歌集を語るのは
暴論に近いかもしれませんが

この歌集にはそれ程「見立て」を使って
作られた歌が多く収められています。

同集に収めらている「ちはやふる」でも有名な在原業平のあの一首も例にはもれないといえるでしょう。

以降、和歌や文芸の世界ではのちに江戸時代に派生した俳諧の付合などにも見立てを用いたものが色濃く作られていきます。

 

庭園による見立て 枯山水

前述の通り見立ての手法は神話や和歌による文芸からはじまると考えられていますが、
中世になると日本庭園にもその傾向が顕著に現れてきます。

平安時代に残された最古の造園書である
『作庭記』
には、既に

 「石を立つるに 三尊仏の石は立ち 品丈字の石は臥(ふ)す。」

 とあるように三尊仏を石で表すような
形が記されており
庭園においても早い段階で
見立てを使った造園が行われていた事がわかります。

またこの『作庭記』の中には

「池もなく遺水もなき所に石を立つる事あり。これを枯山水となづく。」

という記述も残っておりこの時代の枯山水はまだ寝殿造庭園に局所的に設けられたものでしかなかったと想像されますが、
時代が下り、室町時代には山水画や盆景の影響などにもより現在の私達でも
禅宗寺院などで鑑賞出来るような枯山水の庭園が発達しました。

龍安寺 方丈庭園(石庭)

 

それまでの作庭の条件として遣水を施し池や島を配置する事が必要不可欠でしたが、
枯山水の庭園では水を用いずに
白砂や小石を
敷いて水面の水の流れ
またその上に置かれた大きな岩
浮かぶ島
に見立てました。

よく庭園などを見に行くと足下の砂利に線が描かれている風景に出会いますが水が流れる様を感じそこには無常が表されている等と…
その背景を感じながら庭園を観るとより楽しみ方が広がるのではないでしょうか。

 

 
 
 
 
 
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また室町時代中期に編纂されたと考えられる『山水並野形図』には石の名前に

「願石、人形石、鳥遊石、神王石、不老石、万却石、君石、臣石 蝦蟆石 流波石、三尊石、両界石、明王石、屏風石、魚遊石、鵜居石、忌石、船隠石、品文石」

といったように数多くの石に特性を指し示した名を付けてイメージを呼び起こすような見立てをしていた事が分かります。

枯山水に限られず日本庭園には
大きな山のよう石
富士山や、
池に渡した橋
天野橋立を表したりと
壮大な自然や名所を
眼前に表現する特徴が挙げられます。

そこには何か壮大な自然を縮景にするという
盆栽や水石などにも近しい感覚を見出す事ができこのような『見立て』の側面には
後に生まれる和菓子などにもみられる

日本文化の特色の一つでもある縮み志向の形成にも影響していると考えられるでしょう。

池の中に赤松を植えた中島に石橋を渡したものを
天野橋立に見立ている。桂離宮

関守石・盆栽・水石

 

寺社仏閣・日本庭園などを散策すると
良くこの様な石に遭遇します。
これは関守石止め石 などと呼ばれるものでここから先は立ち入りを控えてもらう為に
置かれるものですが、その意味合いには

いし 『意志』『石』になぞらえて
通行止めの意を表わしているとされています。

また枯山水の庭園が造られるようになる
室町時代あたりから
盆景・盆栽・水石
などの文化が日本でも盛んになってきます。

盆栽は手のひらに載るサイズに壮大な自然の風景を模して造形したり

水石も台座に置いた石で山景や海上の岩の姿を連想させるものを作ります。

後醍醐天皇が所有し、愛玩しその後も天下人の手に渡ったとされる水石でとても有名な名石があリそのは平たく細長い形から橋に見立て、「夢の浮橋(うきはし)」と名付けられました。

この名は源氏物語の最終巻の題から取られたものでもありその造形や姿から連想される
名前を古典や名所から名付ける

「銘」を付けるという行為は

後述の茶の湯や日本の文化において
頻繁に用いられる手法になります。

茶の湯 千利休 価値の創造

同時代には現代の茶道に通じる
茶の湯』が生まれます。
この茶の湯に見立ての手法を取り入れたのが
侘び寂びを良しとする

千利休
らの茶人であったとされています。

当時、宋(中国)からもたらされた闘茶は
武家の嗜みとして豪華な道具を使い
茶の違いを競い合う喫茶法であったの対し
侘び茶人達は草庵と称される狭い小間で
当時は雑器と呼ばれるような物や
使用する茶道具に『見立て』を取り入れて
より簡素でありながら
精神的に深みのある茶を目指しました。

 

 侘び茶の『見立て』

 

 後の千利休にも大きな影響を与えたとされる
武野紹鴎

紹鴎遺文」の弟子に残した12か条の中で

見立テ茶器二用候事,況ンヤ家人ヲヤ

数寄者ハ捨レタル道具ヲ

 
数寄者(侘を好む茶人)は誰もかえりみぬ
道具を茶器に見立てて用いる事
 
   と述べており、
 
 

また南方録では藤原定家作の

裏の苫屋の 秋の夕暮れ  

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 

侘び茶の心は
この歌の心にこそあると述べた後

無一物の境界浦の苫屋也。
花紅葉を知らぬ人の、
初めより苫屋には住まれぬものぞ。

眺め眺めてこそ、苫屋の侘び澄ましたる所は

見立て
たれ。
これ茶の本心也と言はれし也。

修行して得られる侘び茶の精神である
「無一物の境界」という境地を
「浦の苫屋」

<見立て>て語ったという

逸話が残っています。

 (この内容が記載されている南方録は近年では偽書であるという見方が強いですが、
それでも当時の茶人のあり方を知る文献としてとても参考になる書物とされています。)

以上にあるような茶人が備えるべき
侘びの精神に重きを置きまた侘び茶の祖とされる珠光に影響を大いに受け茶道具の中に多くの『見立て』を用いたのが千利休でした。

伝千利休像 (長谷川等伯作) 桃山時代

 

 

千利休の『見立て』

 

 千利休は既成の観念に囚われず様々なものを茶道具に見立てて茶会に使用しました。

有名なエピソード一つには

漁師が魚をとる為に腰に付けていた
籠(魚籠)を花入として茶会に持ち込んだ
話が残っています。

当時豪商や武家が中心の茶は
『唐物』と呼ばれる中国から仕入れた
大変高価なものを道具として主に使用されていましたが、

侘び茶人によって
すり鉢を水差しに
魚籠や自ら切った朝取りの竹を
花入れにする事によって

日常の中で目を向けられなかったものが、

茶会という場を通して使う者の
<創造>として作用し

当時の”美”を握っていたされる利休が
道具の見立てをすることによって
本来高価とされていた道具以上の価値を生み

『物の価値を創造する』

ことにまで至ったと解釈されています。

                                引用元:利休 籠花入 銘桂川 香雪美術館

 

その現象は時と場所が変わりますが
西洋においてマルセルデュシャンが
既製品(レディメイド)を
展覧会持ち込んで芸術の価値を変えてしまった現象と同視され語られます。

 茶の湯の大成には『見立て』の
手法が欠かせない
大切な一つの要素であったといえるでしょう。

 

芸による見立て 能・歌舞伎・落語

いわゆる舞台芸術にも『見立て』の方法は
色んな場面で使われています。

一番分かりやすくイメージしやすいのは
落語
かもしれません。

落語は道具や衣装に頼らず落語家一人の和談によって役や状況を表現しますが、その際に唯一持っている小道具が “扇子” と “手拭い” です。

この扇子を用いて煙管を吹かす仕草やでもの食べる仕草。手拭い財布や手紙、煙草入れなどに

あらゆるものに見立てて観客に分るように表現しながら談話を進めて行きます。

落語家の必需品の扇子と手拭い 

扇子の存在

 

また「扇子」は落語においてだけではく
あらゆる分野で色んな見立て方をされています。

茶道では茶室に入る際挨拶をする時の結界とし
舞踊においては扇を持って舞い
自分の体を使うことによって
幅広い表現を可能にし
相撲の行司が軍配に使う団扇のようなものは
元は扇子が代用されていました。
投扇興(とうせんきょう)と呼ばれる伝統遊戯
では扇子を投げて得点を競い現代でいう
ダーツのような使い方もされます。

扇子は日本の文化においてとても重要な道具の一つでありますが、各分野でこれだけの
使われ方があるという意味で
その存在自体が日本の「見立て文化」を象徴している様にも思えます。

落語と同じ江戸時代に生まれた
演劇である歌舞伎
出雲阿国
が京都でかぶきおどりを演じて大人気になったのが始まりとされていますがその後に流行ったとされる
遊女歌舞伎
ではスター遊女禅宗の和尚さんに若衆歌舞伎では主役を勤めた美少年たち仏像に見立てて褒める習慣があったとされ
その成立に見立てが重要に
関わっていると考えられています。

また歌舞伎の中のストーリーには歴史・説話や実際におこった事件が背景に隠されている芝居が多くあり複数の物語を絡み合わせて作られる作品を「綯交ぜ」と呼びます。

これには時代を飛び越えて物語の共通性を見つけ出す『見立て』の世界が働いているといえるでしょう。

 

見立絵 

 

伊藤若冲『果蔬涅槃図』江戸時代

また江戸時代の浮世絵や日本画には見立て絵と呼ばれるジャンルの画が流行りをみせます。

 伊藤若冲によって描かれた『果蔬涅槃図』は、お釈迦樣の入滅の様子を沢山の野菜に見立て描かれています。

真ん中に横たわる大根がお釈迦樣で
嘆き悲しむ弟子達や動物を
八十八種類の
野菜、果物、木の実に
例えています。

こういった見立絵には同時代の浮世絵にもよくみられ歌川国芳・国貞 、鈴木春信らによる
見立絵が有名ですがそれに限らず
一つジャンルとしてこの時代の多くの浮世絵師に描かれています。

先にあった歌舞伎や見立て絵のように
江戸時代の『見立て』には

何か『当代の「俗」なものを「聖」なものに
なぞらえた』ものが

多いという特色があるともいえるでしょう。

風習にも根付く見立ての構造

日本の見立て文化はそれだけに終わらず
今は失われつつある
風習や私達の生活の中にも根付いてるといわれています。

例えば日本の正月に食べられるおせち料理は、

黒豆は「まめに働くため」、
数の子
は「子沢山」など一品、一品の料理を
縁起かつぎ
に見立てものであり、

同じく正月に女の子の厄除けとされ興じてきた羽付き伝染病を媒介とする蚊を食べる
トンボ羽根に見立てたられ
その羽根の先に使われる黒い玉は、
ムクロジ
(無患子〕の種で子を患わない
願掛けされて使われていました。

現代における育児でも小さな子供が大人の日常のちょっとした行動を真似して積み木などを
電話のかわりにして遊んだりする事を
私達の国では

「見立て遊び」と呼んでいます。

 

見立てと比喩とメタファー

以上のように様々な分野で使われている
表現ではありますが
見立てと呼ばれる方法は
この国特有なものなのでしょうか。
比喩表現の一つとして考えられ
見立てに表現に近いとされる暗喩は
西洋ではメタファーと呼ばれています。
それでは一体、暗喩
と「見立て」とはいったいどの様な違いがあるといえるのでしょうか。

日本文化についての研究を重ねている方々による考察と特色をいくつかを挙げてみましょう。

・全く違う性質を持ったもの同士の類似を発見し結びつけてすり替えて表現する

目の前の現実に与えられた「前景」を手がかりにしながら、その背後にある
「後景」を二重写しのように投影する

鑑賞者との共同的な場の創造という特色があり何を見立てのかが分からないと成立しない。

また知識や情報や物事を細かく分けて分類していくが欧米型であるのに対し、
近似性を見つけ出して分類していくのが近現代以前の私達の特徴だったともいわれています。

比喩表現の中で何が見立てであるのかを
限定するのは難しいのかもしれませんが、
何か上に挙げた例と共通性する部分を多く
見いだせるのではないでしょうか。

現代の見立てとこれから

現代の日本でも表現や創造の分野で
活躍されている人達は
この見立てを上手に使っている事に気付くかもしれません。また普段の何気ない暮らしの中に取り入れることによって日常を彩るような
きっかけが生むことが出来るのも見立ての一つの効果ともいえるでしょう。

その一方で近代に入り日本人には見立てる精神が失ってしまわれたという指摘もあります。
その背景には物質的に豊かになり
物が溢れ何でも手に入る事によって
見立てる必要性が
無くなってしまったり、過去をそらんじる、
物や事に想いを馳せる
といった行為が日常の生活から切り離されてしまった事に要因があると
いえるのではないでしょうか。

歴史を”振り返って”みると
この国のあらゆる文化は
いろんなものを「見立て」る事によって
形成されてきた事がわかります。

過去の先人達のように上手に見立てる心が

これからの時代より一層に

求められているのではないでしょうか。

 

参考文献

  • ・古事記
  •  古今和歌集 (新 日本古典文学大系)  – 1989/2/20
  •  ・南方録 (岩波文庫)   1986/5/16
  •  ・見立ての手法―日本的空間の読解  1990/8/10 磯崎新
  •  ・図説「見立」と「やつし」―日本文化の表現技 2008/4
  •  ・日本の美学24 特集: 見立て 1996年/ぺりかん社 少マーカーライ
  • ・折口信夫全集J第三巻『古代研究J (民俗学篇二)「ネ申道に現われた民俗論理J
  • ・日本庭園―空間の美の歴史 (岩波新書)  – 2009/2/2  小野 健吉
  • ・日本の美を語る」高階秀爾編著/青土社刊 
  • 変化論 41―歌舞伎の精神史 (平凡社選書) 服部幸雄 

  •  

見立ての歴史年表

 

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